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         ● CASE 1 ●



「お、おい、大丈夫か、二人とも」
 一番近くにいた数人が駆け寄った。声をかけたのは松山だ。
「…うん、ごめん。大丈夫だよ」
「いや、面目ない。心配ないから」
 ピッチに倒れた岬と三杉はすぐに身を起こして声を上げる。それからはっとしたようにめいめいに芝に目を落とし、まず自分の手を見た。
 くるっと跳ねるように互いの顔を見合わせたのはそのわずかなワンクッションの後になる。
「――あ」
「……」
 こちらの松山は安堵した顔で笑った。
「いやあ、おまえらがこんなミス、珍しいな」
 手を差し伸べて三杉につかまらせ、引っ張り起こす。岬には別の手が伸びた。
「ちょっと早いが、クーリングブレイクだ! 一息入れろ」
 向こうで審判役の監督が声を張り上げた。選手たちはめいめいボトルに手を伸ばす。次籐が走ってきた。
「すまんタイ。ワシが目測を誤ったと」
 一つ前のプレイで相手側にタックルを仕掛け、そのスライディングのパワーが僅かに内側に向いた――それを避けようと、フォローに来た岬と迎え撃とうとした三杉が互いの死角同士で交錯したのだ。激突、と言ってよかった。
 しかし岬は苦笑いしながらも次籐に手を振る。
「いや、支障ないから。平気だよ」
「そうだよ。ケガもないしね」
 三杉も笑ってラインをまたぐ。ボトルは取らずに脇の蛇口に歩み寄った。少し遅れて岬がその後ろに立った。声を低める。
「どうなっているんだ? これは」
「わかんないよ!」
 水から顔を上げた三杉も吐き捨てた。
「僕たち――入れ替わっちゃうなんて!」
「…まったく、よりによって君ととはね」
 二人は振り返ってピッチに視線を投げた。まさに、事故現場だった。
 きらきらと光を弾いている緑の芝。何事もなかったように。
 二人はまた視線を戻し、互いの顔をじっと見る。それから大きな大きなため息が重なった。



「ちょっと、それじゃ食べすぎじゃない? 太っちゃうよ!」
「栄養バランスが第一だ! どこが食べすぎなんだ。君こそ睡眠時間が足りていないんじゃないのか?」
 朝のダイニングではチームメイトたちが生温かい目で彼らを見ていた。
「朝からやりあっちゃって、あいつら元気だな」
「ほんとほんと」
 普段はそっけないというか、接触さえほぼないというのに。
 ただそれは表向きには、という注釈付きであることを、彼らは口には出さなかったもののよく知っていた。
「もう6日もたつのに、誰も僕らが入れ替わってることに気づかないなんて!」
 三杉、いや中身は岬が食事のトレイから顔を上げずにこぼした。向かいに掛けた岬もとい三杉がやはりうつむいたまま低く応じる。
「まったくだよ。一目瞭然だろうに」
 と言いつつ誰にも明かさずに過ごしてきたのだが。
 ダイニングの片隅、このテーブル近くには誰も来ようとはしない。
「おーい、岬くーん」
 全体での準備運動の後、向こうから元気な声がする。
「ポジション別練習になる前に、あのツインシュート、ちょっと付き合って。新しいの、試したいんだ!」
 もちろんそれは翼だった。
「いいよー! 行こう行こう。シュートでもワンツーでも喜んで!」
 犬のように駆けて行く。こちらで三杉もとい岬がこぶしを強く握り締めていた。
「もー! 下手なお芝居しちゃって。許さないからっ」
 ディフェンダー陣は練習でとことん走り回らされた。
「いい、石崎くん。今度ブロック甘かったらラリアットだからねっ!」
「ひえーっ、じょーだんだろっ。カンベンしてくれー」
「こわっ」
 早田でさえ青ざめる。松山だけは笑っていたが。
「はっはっは。はりきってるなあ、三杉」
 そんなこんなで、練習は今日も平和だった。



 しかしその夜。
 岬の部屋をノックする小さい音が響いた。もう深夜である。
「…起きてる?」
「ああ」 
 部屋の照明は半分落として、ベッドサイドの灯りで岬もとい三杉は本を読んでいた。入れ替わって以来、こうして訪れるのは初めてになる。
「自分の顔を前にしてそういう気分になるのは無理だと思うんだが」
「僕も、こんなじゃ本気出せそうにないけどさ」
 三杉、いや中身は岬がドアの横でいきなり部屋の照明を切った。そうしておいてベッドに近づく。
「真っ暗なら、見えないよ?」
 ベッドサイドの最後の灯りが消えた。
「それとも、目を閉じてるとか」
「…そうだね」
 息が、重なる。パタンと本が落ちる音がどこかでした。



 カーテンの向こうが白んでいた。というより既に十分に明るい。
 三杉はゆっくりと目を開けると、自分の胸の上に落ちている手に目をやって少し笑った。
「みさき、くん?」
 岬も目を覚ます。自分を見ている相手の表情に、息を吐き出した。
「元に戻った?」
「うん」
 改めて、その体を柔らかく抱き寄せる。
 戻ってみれば、確かに、そう大きな違いはないような気がした。





         ● CASE 2 ●




 ここは南半球、ブラジル。
 ロベルトは目を開いた。手足を伸ばして小さな異変に気づく。体が、軽い。
「おーい」
 窓の外から声がする。なんだか覚えのあるような?
「ロベルトぉ、起きてー!」
 起き抜けのぼんやりした頭で顔を突き出すと、緑の葉陰の下で懸命に呼ぶ、俺がいた。
「あ、いたいた。やっぱり俺だぁ。俺、ロベルトになっちゃった。あはは」
「えっ?」
 見覚えのないベッドの上に鏡があり、俺はそれを見て唖然とした。
「今朝、目を覚ましたら知らない部屋にいてさあ、隣にすごいボインなお姉さんがいてびっくりしたよー。あは」
 いや、翼、今どきボインて。もしかして語彙力までロベルトに?
「えーとつまり、俺が翼になっておまえが俺に?」
「そうみたい。あははは」
 俺になった翼を外に待たせてその場でジャンプしてみる。確かに異様に軽い。
「セディーニョ監督、早いですねー、ツバサを迎えに来たんですか?」
 同じジュベニールの選手たちも順に起きてきたようだ。外で声がする。ブラジルでは今俺は母方の名字を名乗っている。ロベルト・(中略)・セディーニョ・ホンゴーだ。
「わあ、すごーいすごーい! 俺、こんなプレイもできちゃう!」
「俺だって、スピードアップだぞー。あはは」
 グラウンドに響く笑い声。俺になった翼と、翼になった俺は走り回った。
 あはは、はははは。
 なんだかよくわからないが。
 幸せだから、いいか。





          ● CASE 3 ●




 東邦山の上は今日も暑い。
 頭のどこかがくらくらするようだ。激しい練習が続く。
 走り、ぶつかりもつれ、空を仰ぐ。
 若島津の視界がふっと汗ににじんだ。
 どきっとする。手が、空だ。グラブがない。腕も剥き出しだ。急いで体を見れば、異状がわかった。ユニフォームが違う。それは、フィールドプレーヤーの姿だった。髪だけは長く、うつむいた肩にばさりと落ちる。
 思わず振り返った。ゴールじゃない。彼はフィールドの真ん中にいた。
 目の前を斜めにボールが横切る。反射的に走り出していた。前だ、前だ、と声が周囲に沸きあがる。自分の中でも同じように声が響いた。
 左に一度出たボールがノートラップで浮き球になった。そこに飛び込む。足の衝撃は脳に直接突き刺さった。
「いいぞ、今のタイミング」
 コーチの声に我に返る。ボールはネットの奥にからまっていた。もう一度振り返る。向こうのゴールには赤いユニフォームが遠く見えていた。




 日向は半ばパニックになっていた。気がついたらここにいた。手にはグラブ。そしてゴールを背に、彼は一人立っていた。
 見覚えのある赤いキーパーウェア。ひじまで上げた長い袖、そして覆われた脚。まとわりついて、重い。
 人の動きははるかに遠く、ゴールしたようだ。ボールがセンターに戻される。今度はそれが、はっきりと見えた。右に、左にボールは動き、時に奪い合いになる。
 わけがわからないまま、ただそれを凝視する。ボールではなく、目には見えない力の塊が向かってくる。日向にはそれが押し寄せる奔流に感じられた。
「川辺、ライン側から押さえろ! 根岸、マークを外すな!」
 自然に声が出た。2年のFWはスピードに乗っているようだが、今なら古田が抑えられる。大きく腕を振り上げながら指示した。
 これがパワーだ。人ひとりずつが持つエネルギーの集合体だ。俺はそれをよく知っている。ゴールへと迫るその圧倒する意志。
 日向は体じゅうに躍動するものを感じた。
 呼応する。それが何かはわからなくても、かっと燃えたつ熱さが全身を駆け巡る。
 来た、と思った時には飛び出していた。複数の衝撃。が、それをすべてはねのけてボールを上半身に抱え込む。大きなため息。と共に圧力は去る。エリアの端でボールを力いっぱい投げた。




「なるほどね」
 若島津は首をぐるりと振った。コーチの合図で今度はコートが反転する。ミニゲームはリバースだ。まず頭を切り替える。今度は反対側のゴールが標的というわけか。
 駆けるピッチはどこまでも自由だ。自由に攻撃の絵を描けるのだ。彼は高揚した。パスが足元に来る。ドリブルしてリターン。同時に空間を探す。
 狭い。狭いが途は見えた。ただその前方に、強い圧力がずしりと。なんだこの厚みのある圧倒的な重さは。ピリピリとした危険の匂い。正面のゴールにその姿はしんと立ちふさがっていた。
「あれがそうか」
 気づかずニヤリとし、一か八かの組み立てに切り替える。大きく脚を振り切り、オフサイドラインギリギリにボールを送った。そこに走り込むのは反町?
 相手キーパーは的確にDFを動かしている。ならば、残る手は――力技か!
 反町がはたいたボールがゴールエリア隅へと転がる、その一瞬。
 彼は頭から突っ込んだ。キーパーもそこに鬼の勢いで飛び込む。激突。誰もがそう思った時。
 時が止まった。と彼は思った。凍りついた、とも。何もない、白い空間で。
「日向さん?」
「…若、島津?」
 二人は同時に認識する。そして直感する。自分はここに在るべきでない、と。
 立場が入れ替わっているのだ。相手は自分と。自分は相手と。
 ゴール前の熾烈なぶつかり合いが、瞬間弾けて。
 そこに、仰向けになって日向は笑っていた。若島津も声を上げて。
 ディフェンス陣が駆け寄る。遅れて反町も駆けて来た。
「大丈夫ですかっ!」
「へーき?」
 笑っている姿を呆然と見つめる。
「日向さん? 健ちゃんも、どーしたの」
「いやすまねえすまねえ。間違えてたな、俺は」
 まだ笑いを押さえ切れずに日向がやっと言った。
「ちょっとした間違いだ」
「そうそう」
 赤のウェアをパンパンとはたきながら若島津が立ち上がった。くっくっとまだ笑いながら手を貸して、黒いウェアの日向を引っぱり上げる。
「俺はキーパーで、日向さんはストライカーだったんだ」
「なに訳のわかんないコト言ってんの」
 反町は不服そうに口を尖らせた。
「暑いからって、ボケてんのか。そんなの当たり前じゃん」
「だな」
 東邦山の夏は、まだまだ続くのだった。



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