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 若島津が学校を辞めることになった。
 実家の後継者問題でいろいろあるらしく、俺たちにはよくわからなかったが動かせない事情らしかった。
 もちろん俺達は反対した。代案もあれこれ出たが、どれ一つとして決定的なものはなく、二年次での中退と決まってしまった。
「大丈夫、家は出るけどサッカーは続けるさ。空手もな」
 若島津は案外さばさばしていた。本心は知らないが。
 問題は日向さんだった。引き止めようと誰よりも動いたようだが、あいつの家庭問題については一番詳しかっただけ、諦めるしか手はなかったようだ。むすっと不機嫌に押し黙り、日だけが重苦しく過ぎた。
「日向さん、お願いがあるんですが」
 辞めた後は就職と言っていたあいつはある日言い出した。
「俺、これを機に髪を切ろうと思うんです。日向さん、お願いできませんか」
「…俺がか」
 やはりむっつりとしたまま日向さんはじっと動かなかった。
「今すぐじゃねえだろうな」
「そうですね。ええと、できればゴールの前ででも」
 いきなりの言葉だった。若島津なりの覚悟があったのか、口を引き締める。
 その場に同席していた仲間は固まった。中には顔を反らす者もいた。
「じゃあ、明日。頼みます」
「わかった」
 日向さんは最後の止め鋏をすることになった。希望者は加わっていいということだったから、2年の仲間はほとんど集まった。
 下級生の1年も、さらにはグラウンドキーパーのおじさんや噂を聞きつけたサッカー部以外の生徒も一部加わることになって、メイングラウンドの一角は多くの顔が揃った。
「なんか、大袈裟になっちまったな」
 若島津は苦笑いをしながらゴール前に置かれた教室の椅子に腰掛けた。切りやすいように軽く後ろで髪を束ねて。
 風の強い日で、若島津の長い髪はいつもに増してばさばさと乱れていた。
「じゃあ、始めるぞ」
 声がかかり、最初におじさんが遠慮しながら進み出た。
 じゃきっという音が思いの外大きく響いて、その瞬間に何人かが顔を伏せた。
 下に落ちるよりも多い量が風に飛ばされていった。
 一人、また一人、鋏を手に髪を切っていく。俺の隣にいた小池が肩にすがる。ほどなく体を震わせ始めた。向かい側の川辺も高島も急いで下を向く。
「おい、やめろ、秀人。我慢するんだ」
 俺があせって声をかけても小池の震えは止まらない。ついには小さく呻く声まで出始めた。
「ダメだって、俺だって我慢してるんだぞ」
 反対側で今井が言う。だがやはり声が不必要に上ずっている。
「…こんな、こんなのって」
 反町が低く唸った。両手で顔を覆って。
「う…くく…ぷっ!」
「おい!」
 我慢はそこまでだった。誰かが噴き出してすぐ、あちらでもこちらでも笑いが弾ける。下を向いたまま、体を折り曲げるようにさえして。
 押し殺した声が次第に広がる。我慢は限界を迎えていた。
「こんな…断髪式みたいなのって」
 反町はもう涙目で唇を震わせている。
「やめろよおお!」
 鋏を持つ列までが笑いに包まれかけていた。
「笑わせるなー!」
「うくく、く」
 笑う声は止まらない。とうとう若島津までが肩を震わせ始めた。切ってもらっている以上、声は上げられなかったが。
 松木が、古田が涙をぬぐっている。誰もが、建前として大笑いはしていないが、懸命に抑えては笑いが続く。
 だが、その中でただ一人固い表情のまま、日向さんはぴくっとも動きを見せないでいた。
「ああ、じゃあお願いします」
 半分笑い含みに、最後に若島津は背後の日向さんに声をかけた。
「欲しかったらあげますよ、それ。まあいらないでしょうが」
「よし」
 短く答えて、日向さんは鋏を取り上げた。しばった髪の根元に刃を入れ、一息置いて一気に切り落とした。笑いを飲み込んでいた周囲の者たちは一瞬沈黙したが思わず感嘆の声を漏らしていた。
「みんな、ありがとう。笑って送り出してくれて、感謝するぜ」
 若島津は立ち上がって周囲をぐるっと見渡した。
 それからいったん席を外し、通いの理容師さんの待つ部屋に行く。いつもは週一だが今日は特別に来てもらったのだ。
 1時間もたたないうちに戻った若島津はプロの手できちんと整えられた短髪になっていた。若林より森崎より短くなって。
 固めていないツンツンの髪はそれでも小さく風に揺れていた。
「ちょっと切りすぎ? 空手部みたい」
 反町は周囲をぐるっと周って遠慮のない感想を言っている。
「そう、俺がそう注文しといたからな」
 若島津は制服を脱いで白シャツにネクタイ姿になっていた。戻った時に1年生のマネージャー担当の新入部員が慣れない手つきで締めたものだ。
「いい記念になった。ほんとに今日はありがとうな、みんな」
「明日から、しっかりな」
「どこへ行ってもおまえならちゃんとやるさ」
 知らない姿になった若島津はしっかりうなづいた。
「ああ、それで俺の名前はこれからは変わるからな。若島津じゃなく松ヶ音だ。変わった名字でまだ馴染まんが」
 まるで今までは普通だったかのように奴は言った。
 家を出る。籍も抜くということらしい。
 日向さんは黙っていた。目は合わせず、手元の何かを握り続けていた。
 何か。
 俺たちが過ごした時間を知っている何かだ。


 1ヶ月もたたないうちに、Jリーグチケットが束で届いてみな驚いた。
 あの翌週には奴は試合に出ていたのだ。
 日向さんは最後に、にやっと笑った。
 

                              《END》




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