たまご
目を開けると穏やかな横顔がそこにあった。動かした体にはっとしたようにこちらを向いて目が合った。持っていた雑誌を静かに置く。
「岬くん、来てたの」
「はい、どうぞ」
岬は微笑むとストローボトルを翼の口元に近づけた。
「ありがと」
「先週からずっと熱が下がらなかったんだって? クラブヘルパーさんから連絡があってびっくりしたよ。風邪をこじらせちゃったかな?」
スポーツドリンクを少し飲み込んで、翼はあいまいに笑った。
「昨日くらいから熱はましになったんだ。でもまだ体が思うように動かせなくて」
岬はそのあたりは連絡を受けていたらしい。
「あせらないで。ゆっくり治そう? 何か食べられる?」
「んーと、おなかすかないってか、ほしくない」
「無理はいけないけど、栄養はとらないと良くなんないからねえ。たくさんじゃなくてもいいから、何か食べたいものってないかなあ」
ボトルを引き取って岬は困ったように眉を寄せる。翼は上掛けを引き寄せた。
「スープとか?」
「…あのね、日本食がいい」
「ああ、やっぱり」
心身とも弱っている時だ。馴染んだものがいいという気持ちは岬にも伝わった。
「じゃ、定番だけどお粥かな? うどんとかでも…」
「たまごかけご飯」
いきなりな翼の言葉に岬の表情が動いた。
「たまごかけご飯、食べたい」
「あのさ、翼くん」
険しい顔で岬はため息を漏らした。
「キミ、会うたびボクにねだるけどさ、無理だってわかって言ってるんだよね?」
「でもぉ…」
不満そうな声は上掛けに埋もれた。
「だって、こっち来てから一度も食べてないんだよ? ずっとだよ?」
「当たり前だって」
ため息はさらに大きくなる。
「たまごをナマで食べるのなんて日本人くらいなんだから。サルモネラ菌のせいでどの国だって避けないわけにいかないんだし」
「ううう、サルモネラめー」
本気で殺菌に命をかけそうな翼の唸り声に、とうとう岬は噴き出した。
「ごめんごめん。いつもキミがそれ言うから、今日は持ってきてみたんだ。お見舞いがわりに」
「え?」
翼はぽかんとした。岬が出した小ぶりなパックを目を丸くして見つめる。
「はい、これ。イギリス土産だよ。実は今日買ってみたんだ、寄り道して」
「たまごだ! でもこれって」
「うんうん」
予想したとおりの反応に岬は満足そうだ。
「政府認可の安全基準を満たしてるから菌の心配はないって。ほらここ、ライオンのマークがあるだろ?」
さすがに完全な生卵の用途ではなくてナマに限りなく近い半熟の料理のためらしいが、これでイギリスは例外的に生食が可能になったヨーロッパの国となったわけだ。EUを抜けたせいでもないだろうが。
「じゃ! 食べさせて! さっそく」
「ひとくちかふたくちだけならね。ほら、まだ治ってないし、体力がつくまではねえ」
駄目だとあきらめていただけに翼のテンションは爆上がりだった。すがりつくように岬の服のすそを握る。
昨日ヘルパーさんが炊いて保温していったという炊飯器を岬は覗いた。ごはんはある。あとはたまごを割って混ぜるだけだが。
御飯茶碗がわりのサラダボウルにちょっぴりだけ取り分けてスプーンで渡す。ベッドの中で夢中で食べている翼の横で、しかし岬の顔は浮かない。
「あれ、そっちのお皿は?」
起き上がって視線が高くなった翼がテーブルの皿に目を止めた。まだ食べ足りない顔で。
「ああ、これはおにぎりみたいな、そうでないような…」
ラップがかけてあるがまだほのかに温かい。自分が来る数時間前に炊飯器のごはんを減らしてこれを残していったのは果たして…。
雑に丸められた不揃いな塩にぎり。こちらにも歓声を上げている翼が寝入っている間に忍び込んだ訪問者のことはあくまで推測だから黙っていることにする。
「もっと良くなったらたまごかけご飯、自分で食べてね。たまごはあと5個あるから」
余ったたまごかけご飯を口にしながら、通い妻役の彼はまたため息をついたのだった。
end
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