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 合宿に入ったばかりだというのに森崎が病気になってしまった。

 「PK病」というキーパーだけがかかるとても風変わりな病気だ。
 「PK病」にかかると何日も何日も眠ったままになり、足はときどき妙な動作をする…

 たんと、たんと。
 医務室のベッドの上で上掛けの中の足が動く。
 苦悶の表情を浮かべるでもなくかといって安らかでもなく、ただ昏々と眠り続ける。
 それを若島津は一人じっと見守っていたのだった。


ゴールエリアの長い夜




 この病気は眠っている間に「PK病」のばい菌にフィールドに連れて行かれる。そこでボールを1個渡されて
「これで1本決めるまでは――」
 呆然とボールを受け取り言われるがままにそれをセットする森崎。
「夢からは醒めさせはしないからな!」
 全身黒ずくめの悪魔妖精が審判姿でホイッスルを鳴らして急かす。黒サングラスをかけてヤンキーのような凄みを見せて。
「早く夢から醒めたけりゃ早いとこ決めちまうこった」
 冷酷な言葉に森崎の顔はますます情けなくなる。

 止めるほうの役には慣れていてもPKを蹴る側にまわるというのは全然勝手が違う。
 一対一で向き合うのは同業なのだ。

 それでも大抵のキーパーはさっさとPKを決めて病気を治してしまうのだが…。
 ため息一つついてゴール前に何度目かのボールを置いた森崎は、向かいに立つキーパーに今度こそと真剣な目を向け、ゴールの枠に対する。

「年寄りの選手やなまじ情に流されやすい選手は長引く病気ですな」
 おなじみの南葛の医師は淡々と言い切った。せめてもの栄養剤の注射を打ちながら。

 情に流されやすい。それだ!
 往診の医師を囲んで礼を言っている南葛メンバーたちの輪からは一人離れ、若島津は険しい目になった。
 そうでなければこんなに長く眠りっぱなしになるなんて考えられない!

「お大事に」
「ありがとうございました、先生」
 医師を送り出しながら全員が場を離れ、医務室は再び静けさを取り戻した。
 残るのは若島津とベッドの森崎だけ。

「まったく…」
 小さくため息が出る。
「夢の中のフィールドでおまえは何をやってるんだ」
 俺がこんなに心配してやってるのに。
 窓からの光が淡く差す。それに包まれて生気のない寝顔を見せる森崎。どんな呼びかけにも応じることなく。

「あ、おい若島津、練習に戻らねえのか?」
 廊下を進もうとした日向は振り返って怪訝な顔になった。その向こうには出口に向かう何人かの選手たち。
「ああ、ちょっと寝てきます」
 いつもの無表情さのまま若島津が言う。
「三杉に言っといてください」
「…ね、寝る?」
 ぽかんとしたままの日向を残して背を向ける。
 ピッピーッ!
 甲高いホイッスルが。

 そう、容赦なく響くホイッスル。
「そろそろ決着はついたか?」
 ホイッスルを吹き鳴らしながら近づく審判姿のPKの精。
「ん?」
「あーーっ」
 棒立ちになる森崎の前には、ゴールに向かうも途中で力を失って転々とする白いボール。
 そしてペナルティキックは難なくキーパーの手に収まった。
「あー、ほんとにおまえは…」
 失望の声が出る。
「とろい上に読みまで甘いんだな」
 しばらく呆然とゴールに目をやっていた森崎はがっくりとうなだれた。
「わたしも人選を誤ったとしか言いようがない。さっさと決めて夢から醒めるんだぞ」
「うう…」
 審判の黒サングラスがキラリと光った。それだけ言ってピッチを去る。
 森崎はへなへなと座り込んだ。
「あ~~情けない。けどもうどこ探しても体力がないよ」
 ペナルティエリアの前で足を投げ出してしまったそこに、いきなり名を呼ばれる。
「森崎!」

「やっと見つけたぞ」
 それは若島津だった。力の抜けきった顔で振り返る森崎だった。
「あれえ、若島津」
 ぬっといきなり目の前に現われた相手に間の抜けた声を上げる。
「どうしたんだ。おまえもPK病にかかったのか?」
「まさか」
 森崎と同じくウェアに身を包んだ若島津は、いつものようにぶっきらぼうな態度でフィールドに立っていた。
「俺はそんなドジはしないぜ。あれか…?」
 顔を上げてゴールを睨みつける。ゆっくりと目が細められた。
「……なんでさっさと決めちまわない」
「え?」
 苦くなった若島津の表情に不思議そうにする。
「いくらキーパーだといっても、それなら逆に相手の反応を読むのに有利なはずだろうが」
「ん……」
 森崎は足元を見た。そこにはさっき蹴ったボールがぽつんと、行く先を見失って転がっている。
「…だって、何かかわいそうだし申し訳なくて」
「かわいそう?」
 若島津の声がさらに低くなった。
「おまえ、いつも自分をかわいそうだと思いながらキーパーやってるって言うのか…?」
 ボールを拾い上げ、まっすぐに森崎を見る。
「俺は点を決められたキーパーに同情なんぞせん。俺自身が決められた時もだ」
 グラブをはめた手がゴールを指した。

「見ろよ、森崎」
「えっ?」
「あのキーパー誰だと思う?」
 彼らの前にぽつんとあるゴール。そこに立つキーパーがしんとPKを待ち受けている。
 森崎は目を丸くした。
「あれって誰かだったのか?」
 備品のたぐいかと思ってた。
 「フン。やっぱり知らなかったんだな」
 若島津はうっすらと笑みを見せた。
「見てろよ」
 言ってボールをセットすると間髪入れずに蹴る。絶妙なコースでゴール隅に向かってPKは飛ぶ。
 ザッ!と決まるボール。最後までその弾道を追って横っ飛びになったキーパーが顔を上げた。呆然とゴール奥を見て、かぶっていたキャップがぽろりと落ちた。
 その顔は…。

「ええ! 俺っ!?」
 ボールを追って倒れ伏したキーパーの顔が露わになる。
 そう、それは森崎だったのだ。
「ふふん。あれが若林だったら顔面直撃を狙うとこだが」
 なぜか得意顔になる若島津。
「な、わかっただろ? おまえの蹴るPKが全部読まれてたわけが」
「う、うん…」
 まだ森崎は呆然としている。自分に負けていたとは…。嬉しいような悲しいような。
「というわけで」
 そんな森崎に構わず、いきなり一升瓶が突き出される。
「これだ、森崎!」
 どこから出した。
「自分で自分のウラをかくには酔うに限る!」
 ドキッパリと若島津は森崎に迫った。

 ふわふわと。
 漂う心地。
 俺は不幸だったのかな。いや違う。
 不確かな場所で不確かに立って、あたりを見回す。残った酒瓶をぐびぐびと干している若島津が、霞む視界に浮かんでいる。
「気持ちいい。うん、とても」
 俺はキーパーでいること、悲しいなんて思ったこと、ない。不幸でも、ない。断じて。
 だから、だから俺は…。
 手の中のボールをじっと見る。ペナルティスポットにそっと置き、息を吸う。
 きっと。
「行けっ! ボール」
 いつもよりさらに頼りないキックで頼りなく飛ぶボール。
 ふわふわと。宙をふわふわと横切って、ボールはゴールに吸い込まれた。

「やったあ!」
 思わず跳び上がる。ガッツポーズでジャンプして、着地したそこは。
「あれっ、若島津?」
 そこは夢の外だった。しんとした医務室。そのベッドに森崎はいた。
 はっと見れば脇で若島津がベッドに突っ伏している。
 名を呼ばれて顔を上げた若島津は、一瞬の間を置いて森崎を見、ニッと笑った。
「決めたな、森崎」
「そ、それ?」
 若島津の手にあった一升瓶。すっかり空になって。
「夢の中で飲んだ酒が、なくなってる…?」
「まあな」
 謎の返事をしておいて若島津はベッドにいきなりもぞもぞと潜り込んだ。森崎のいる隣へ。
「それより俺も疲れた。もいっかい寝る」
「ちょ、ちょっと若島津?」
 うろたえる森崎はおかまいなしだ。
「れ、練習は?」
「いい。どうせサボりついでだ」
 上掛けに埋もれてぐーぐーといびきまでかきはじめる。ただのヨッパライか?
「で、でも、叱られる……」
 そこへガチャッとドアの音。
「若島津はここかい?」
 入ってきたのは3人。先頭にいたのは三杉だった。
「おや? お取り込み中だったのか」
 もしもし?
「わーい!」
 森崎が目覚めたことに喜んではしゃぐ翼。そして。
「もりさき~」
 その2人を押しのけて迫り来る猛獣。
「ひーっ」 
 雨降って地固まる。わけもないか。


end
            (元ネタ:『小さなお茶会4巻』猫十字社)
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