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「君とは結婚できない」
 話したいことが、と言われて出てきた渡り廊下。
 そこで三杉はいきなり言った。弥生の目が見開かれる。
「僕じゃ君を幸せにはできないから。長く付き合わせて申し訳なかった。別の幸せを見つけてほしい」
「まさか、淳」
 黙りこんだ後、弥生はやっと声が出た。かすれ声だ。
「まさか、体のことで?」
 三杉は何も言わずに苦い笑いを浮かべた。
「だから本当にごめん。もう…」
「言いたいことはわかったわ。じゃ。今夜はこれで!」
 言葉の途中で弥生は身を翻した。建物の中へと姿は消える。
 夏の終わりの蒸し暑い夜。三杉はその中に一人取り残された。
「弥生!?」
 翌朝早く、弥生はトランクを提げて現われた。
「私、引っ越すから」
「え?」
 訳がわからない。確かに昨夜、別れ話をしたはずだが。
「昨日の今日で準備はほとんどできなかったけど。ま、なんとかなるわ」
「え、と…」
「安心して。すがりついたりストーキングしたりしないから。隣に住むだけよ?」
 何を言っているのか。しかもそれこそ一夜にしてこのマンションの物件を押さえたと言うのだろうか。
「結婚できないなら、そばに住めばいいのよ。何かあってもこれで大丈夫。あ、気が向いたら私を抱いてね? 私も力いっぱい抱きしめてあげる」
「いや、や、弥生」
 そんなことを朝から大声で。
「あなた気づかなかった? 私、こう見えて気が長いの」
 そう言ってにっこりする。
「あなたは絶対に素敵なお爺ちゃんになるわ。それを見届けてあげる」
「え、その」
 唖然とするしかないではないか。それほど弥生はきっぱりと言い放った。
「妻になるのは諦めても、せめてその目撃者にはさせて。きっと楽しいわ。あなたに幸せにしてもらわなくても私は幸せになれるのよ」
「でも君、早く僕なんか忘れて堅実な結婚をして堅実に子供を育てて…」
「あら、私、子供は諦めてないわよ。結婚しなくても子供は産めるもの。養育費だけよろしくね? よかったら」
「認知もする!」
 話は決まった。三杉は毒気を抜かれたようにしばらく弥生を見つめ、そして大きく息を吐き出した。
「まさか君からプロポーズされるなんて」
「ふふ、幸せになるのに手順なんて踏んでられないわよ」
 どちらからともなく手を伸ばして、抱きしめあう。
「弥生、君も確実に素敵なお婆ちゃんになるよ。僕も目撃したい」
「がんばるわ」
 忘れているかもしれないが、ここはマンションの外廊下。朝の通勤時間帯である。何人も、横目でちらちらしながら行き過ぎていく。
 当人たちは気にしていなかったが。
「ねえ、私乙女座なんだけど」
「うん」
「あの乙女って手に麦の穂を握ってるのよ」
 大地の女神デメテルという説が有力だが、もう一人、正義の星乙女アストライアーだとも言われる。
「地上の絶望にも最後まで諦めなかった彼女が、ずっと握り締めてた望みは」
 それが何か。弥生は三杉の耳にそれをそっとささやいた。



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