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 冬の夜道を、日向は家に向かっていた。少し霧が出てきたのか、前方の街灯が霞んでいる。
 と、突然背後から異様なクラクションがとどろいた。夜の街を切り裂くように。
 驚いて振り返ろうとしたそこへ、恐ろしい勢いでライトが突っ込んできた。
「日向さんっ!」
 聞き覚えのある声がどこかから割り込んで、強い力が彼を押したと同時に、爆発のような痛みが全身を包む。
 声もなく彼は宙を舞った。そして意識は闇に沈んでいったのであった。




「――日向さん、日向さん」
 目を開くと、薄ぼんやりとした光の中だった。
 眠っていたのだろうか。
 ゆらゆらと漂いながら、日向は目を覚ました。痛みも何もなく、ただ穏やかな感覚。
「目を覚ましてください」
「――ん、ああ、若島津か」
 どうやら水の中で漂っているのだった。
「何が、あった? 俺は確か…」
「そうです、俺たち、暴走トラックにはねられたみたいです」
 日向はあたりを見回した。水があるばかりである。まだ事態がつかめない。
「はねられて、死んじまったってことか。でもどこも何とも――」
「ですよね」
 若島津の声は落ち着いていた。
「死んで異世界に飛ばされたっていうのか? 俺たち二人とも」
「いいえ、異世界というより、タイムスリップして過去に飛んできたようです」
「えっ、どれくらい!?」
 若島津は躊躇したようだった。見えない姿で、声だけが答える。
「――ええと、五億年くらいですかね?」
 日向の頭が真っ白になった。



「ど、どこなんだ、ここは!」
「どこと言われても、まだ陸地がないようだからなんとも。とりあえず海です」
 確かに水の中のようだった。わずかにしょっぱい。この頃から海はしょっぱかったのか。日向は知らないことではあったが、これでもいろいろあって塩分濃度は一時期より薄まったのである。
「いわゆるカンブリア紀、ってやつか!」
 乏しい知識の中から情報をひねり出す。
「さあ…」
 若島津の返事は頼りなげであった。
「俺が転生したのって最初期の無脊椎動物らしくって、アタマが働かないんですよね。あるのは心臓と消化管くらいで」
「おいっ!」
 日向は慌てた。相方が無脊椎動物になってしまってはどうしようもない。
「じゃ、じゃあ俺は…」
 きょろきょろと見回す。自分の姿がわからない。首やら腕やら動かそうと神経を意識するが反応しない。どちらもない、ということか?
「節足動物ではあるんじゃないですか? ヒレで泳いでるみたいだし」
「うう…」
 若島津によると体長は5、6センチくらいで獲物を捕まえる口吻が1本腕のように伸びているそうだ。目はついているようで、周囲の海が目に入る。浅くて温かい海だった。遠くで見知らぬ生き物が泳いでいるのが見える。大きいものも小さいものも。
「若島津、どこだおまえ」
「見えますかね、俺1ミリもないから」
 もやもやと小さな生き物が水中に漂っているのがわかるが、その中のどれが若島津なのかはわからなかった。
「食ってもいいですよ」
「えっ」
 若島津はとんでもないことを言い出した。
「どうせ俺たちは日向さんのエサだ。食えるうちに食っといてください」
「おい」
「俺たち、3、4日くらいしか寿命がありませんからどっちみち消えるだけです。だったら日向さんの腹の足しになるほうが俺には嬉しいですから」
 日向は呆然とした。
「気にするこたないですよ。すぐにまた転生して生き返るでしょ」
 何に生き返るかはともかく。
 日向は沈黙した。そのまま一昼夜黙ってゆらゆらと漂う。一度暗くなり、それからぼんやりと光が満ちた。
 その時間のうちに腹が減って、心が決まった。
「いいか、いくぞ」
「どうぞ」
 今日も海は静かだった。太古の海。わずかに揺れていろいろな生命を漂うままに上下させる。日向はそんな中を少し泳いで口吻で海底を探った。
「あ」 
 口吻の先端のハサミが生き物たちを捕え、口へと運ばれた。
 小さな存在。けれど生命を繋ぐ貴重な存在。
「じゃ、また――」
 日向の中で、言葉は途切れていった。消化管の奥でゆっくりと思いは溶けていく。波に揺れる中、一つの生が静かに消えていった。
 涙など出るはずのない5つの目から、ぽとりと涙がこぼれた。



「――うわ、気がついた!」
 声が歓喜に弾けた。目を開くと仲間の顔がある。
「どこだ、ここは」
「よかった、よかったよぉ!」
 手を握られた。日向はぼーっと周囲を見る。
 白い天井。白い壁。
「今はいつだ。オルドビス紀か、シルル紀か」
「一晩意識がないままだったから、どうしようかと」
 日向のつぶやきは無視された。
「どこか痛いとこはないですか? 今医者を呼んでますからね」
「――若島津はどこだ」
 低くうなる。ベッドの周りの仲間はしんとした。
 互いに目を合わせ、言いにくそうに口を開く。
「別の病棟にいます。大丈夫ですよ」
「なんでここじゃないんだ」
「えーとですね」
 島野が押し出されて説明した。医者がひととおり診察してから。
「日向さん、トラックにはねられそうになって、若島津がそれをかばって側溝に落ちたんです。日向さん、頭を打って脳震盪で…」
「若島津はほとんど怪我はなかったんだけど…」
 反町が口をひくつかせた。
 若島津は虫垂炎で即効手術となったのだという。自分で痛みに気づかずに過ごしていたのを、運ばれた病院で見つかってしまったと。
 退院まではあと1週間近くかかるらしい。
「そうか」
 日向は大きなバンデージを貼った頭をどすんと枕に落とした。
「デボン紀に転生したんだな」
 脳震盪の後遺症はまだ尾を引いているようだった。




おわり
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