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 お盆休み。久しぶりの実家に帰ると母親が深刻な顔で待っていて、日向は身構えた。
「小次郎、ここに座りなさい」
「お、おう」
 返事は威勢がいいが、内心はびくびくである。母親がこういう態度の時はたいていよろしくない話題が待っている。
「あなたももう十八になります。これまで話していなかったことがあるので、それを話す時だと考えました」
「か、かーちゃん。なんで丁寧語…」
 あぐらをかいて座っていたのだが、母親の目を見て思わず座り直す。母親はうなづくと、座敷の隅の小さな仏壇の前に移動し、鈴を鳴らして手を合わせた。そこには父親の白木の小さい位牌がある。戒名ではなく、日向征吉と書かれた位牌だ。促されて日向も仏壇に手を合わせる。そこまでは怪しいことはなかった。
「とーちゃんのことだけど」
 母親は一度ためらった。
「ここにある名前はとーちゃんの本当の名前じゃないの」
「えっ」
 6年前、東邦に入るに当たっての書類には日向本人も目を通している。両親の名前として故人の父親の名は確かに征吉となっていたはずだ。
「とーちゃん、20年前に帰化したの、ロシアから日本に」
「ええっ」
「とーちゃんの亡くなったお父さん、ロシア生まれで日本に来て、つまりとーちゃんはハーフだったのよ」
「えええっ」
 衝撃の事実である。
「け、けどとーちゃん、全然外人っぽくなかったぞ」
「そうね。見た目はほとんど日本人だったわね。背が高いくらいで」
 母親は懐かしむ目をした。
「帰化前の名前はセルゲイ・ワシリエヴィッチ・リューリャロフ。征吉っていうのは職場で呼ばれてたあだ名だったの」
「じゃあ日向ってのは」
「私の名前。結婚した時に変えたのよ、とーちゃん。日向征吉にね」
「そーなのか…」
 ここまでは、父親の話で収まる。初めて知る事実だったとしても。
「それでね、あんたたちにもロシア名が、あるのよ」
「うおおおお!」
 こうなるとじっと座布団の上にいる場合ではない。
「勝はヴィクトル、直子はアーンナ、尊はミハイール」
 な、なんじゃそりゃー!
「そしてあんたはアレクサンドルよ」
「ギャー」
 もう叫ぶしかない。
「ええと、正式に言うなら、小次郎アレクサンドルセルゲエヴィッチ日向、かしら」
 し、知らん、そんな長い名前、ごめんだ!
「大丈夫よ、戸籍にはないから。うちでそう呼んでただけで」
「そう言えば、ガキの頃、とーちゃんもかーちゃんも俺のこと変な呼び方してたよな? たまに」
「ええ、サーシャってね」
 あれが、そんな意味だったのか! 日向の頭はぐるぐる回り始めた。畳につっぷしてしまう。
 そこに足音がした。
「お、小次郎にーちゃんだ。帰ったのか。やったぜ」
 バイト帰りの尊だった。配達に忙しいらしい。母親はにこっとする。
「そうそう、尊はミーシャで直子はアーニャ。勝はヴィーチャだったわね」
「ん? 何、とーちゃんがつけてた俺たちのあだ名? なつかしいなあ」
「そうねえ、勝は小さかったからヴィーチャって言えなくて、直子や尊とよく混ざってたわねえ」
「ははは、覚えてる覚えてる」
 笑いごとではないのだが。尊にとっては小さい頃の思い出話でしかないのか。父を亡くした時には6歳でしかなかった尊。直子が5歳で勝は3歳にもなっていなかった。
「だから小次郎、もし子供が生まれて、金髪だったり明るい色の目だったとしてもびっくりしないでね」
「え、にーちゃん、結婚するの?」
「しねーよッ!!」
 話があらぬほうに向かっていくのを日向は半ば呆然と聞いていた。尊は来年高校だ。まだ父親の秘密は知らずにいるわけか。
「あ、直子だ」
 玄関口でただいまーという明るい声がする。
「小次郎にーちゃんの靴だ!」
「お、おかえり、直子」
 わーいと叫んで飛びついてきた妹に日向もたじたじだ。直子は中二。近所の商店で店番の手伝いをしているという。
「あのね、帰る途中に若島津さんに会ったの。だから小次郎にーちゃんもいるってわかったのよ。あ、かーちゃん、これ若島津さんから」
 直子が渡したのは小さめの包みだった。何やらロシア語の文字が?
「まあまあ、毎年律儀に。申し訳ないわねえ」
 母親はその供え物を仏壇に上げてもう一度鈴を鳴らした。
「お盆の間に、行きますって言ってたわ」
「なんであいつが…?」
 日向には読めなかったが、そこに書かれていたのは「セルゲイさま」の文字だった。
「勝はね、すごいのよ。成績が良くて、名門の中学にも行けるって先生に言われてるの。毎日学童の学習支援のアシスタントしてるわ」
「なのに勝、自分では明和東って決めてるらしくって。小次郎、あんた話し、してやってくれない?」
 母親の改まった言葉遣いはいつの間にか消え、日常ののどかな話題に戻っている。が、日向はさっきの衝撃から立ち直っていなかった。そして相棒の怪しい行動も。
 小学生の夏、全国大会の前に若島津は交通事故に遭っていた。一時は生命も危うい容態だったというが、奇跡的に回復した。その頃から、彼は日向家の仏壇に線香を上げにやって来るようになった。会ったこともない日向の父親のために。
 束の間のお盆休み。こうして日向家は賑やかになる。
 流しと二間の座敷。ひとつは居間で茶の間で母と妹の寝室にもなる。もう一間は弟2人の寝室で日向はここで寝る。さらに半月だけ、家族は6人になって母の横に長身の見えない姿。
 狭い家にぎっしりだ。ぎっしりの幸せな家族が揃う。
 そんな内緒の日向家だった。



 盆休みのある日、若島津が訪れた。毎年のように焼香し仏壇に手を合わせる。
「どう? 元気にやってらっしゃる?」
「はい、おかげさまで」
 そこは若島津、そつがない。
「そうなの。あの人はやたらと背が高くてね」
 いつのまにか、日向の父の思い出話になっていた。
「髪も黒いし、顔つきも…。でもひとつだけ、目の色が不思議だったの」
「不思議?」
 日向が横で繰り返す。
「普通に見ると目も黒なんだけど、見る角度によって金色に光るのよ。すぐ目の前で、まっすぐ見た時だけ」
「まっすぐ?」
 若島津の目に小さな笑いが浮かんだ。
「へえ~、そいつは気づかなかったな、俺は」
「あ、あ、そろそろ買い物に行かなくちゃ。若島津さん、ゆっくりしてらしてね」
 日向がつぶやく横で母親は急に立ち上がった。あわてたように家を出てゆく。
「かーちゃんも忙しいな」
 日向はごろんと横になる。若島津は茶を手にした。
「そうすると、遺伝かな? あんたも目が、そんなふうになるみたいですよ」
「みたいって、誰かが言ってたのか?」
「ええ、翼が」
 意外なところで意外な名前が出て日向は驚く。
 日向自身が知らなかったくらいだから、父親の出自について翼が知るはずがない。さっき話したからこの若島津が知るだけだ。
 そして驚いたのは一人だけではなかった。驚くというより笑顔になったのだが。
(えっ、小次郎。おまえそんな相手が…!)
 身を乗り出す。ただしその声もその姿も誰にも届いていない。
「ところであんた、わかってます? すぐ目の前でまっすぐ目を覗き込む体勢って」
「…う」
 さすがの日向も気づく。母親が逃げ出したわけも。
「猫みたいだった、って翼、俺にわざわざ教えて。あんた自分で目のこと気づいてなかったんですか」
 がばっと起き上がる。顔が、赤い。
 翼はキス魔である。誰にでもキスして気にしない。そして日向も気にしていない。気にしていないが…。
(おい、ちょっと待て。相手は男か? 私は聞いてないぞ、小次郎っ!)
 勝手に心を読んで、騒ぐ。誰も見えていないが。
(どういうことだ。私の頃はそんな真似は!)
 お父さん、いつの時代もそんなもんです。
 お盆のある日。日向家は母も兄弟たちも出払っていたが、2人ともう一人でたいそう賑やかだった。



「ねえ、小次郎にーちゃん?」
 朝から直子はおねだりモードだった。
「私、今日は休みなんだ」
 直子が、というよりバイト先の商店自体が盆休みなのだが。
「プールとか、にーちゃんと行きたいけどお盆だしなー」
 お盆に泳ぐと引っ張られる、というのは迷信だが、この家ではそれは確かなことかもしれない。
(そうだぞ、直子。引っ張るぞー。その上思い切り頭ぐりぐりして、たかいたかいだ!)
 お父さん、直子ちゃんはもう中二です。
「駄目よ、今日はお墓参りよ」
「わかってるわよー」
 すねた声を出しているが、その間も兄の腕にしがみついて離れない。
「おい、直子、暑いだろうが」
「ふふ」
 年に2度ほどしか帰ってこない兄に甘えたいのはわかるが、直子には別の思惑があった。
「じゃあさ、お寺行った後、駅前のショッピングセンター行こう? 何も買わなくていいから、トモダチににーちゃん見せびらかすんだ」
 ショッピングセンターが休みの中学生のたまり場なのはどこも同じらしい。
「まあ、にーちゃんは有名人だしな」
 尊がにやにやと横目で見る。お墓参りで彼も今日は休みを取ってある。
「そうよ、尊にーちゃんと違ってね」
「おい、俺だって傷つくじゃないか」
「しょーがないわ、小次郎にーちゃんが相手じゃ。誰だって勝てないもん」
 そうよね?などと言ってはまたなつく。日向も呆れるほどに。
「はいはい、いいから準備なさい。とーちゃん待ちくたびれてるわよ」
(ないない、私はあんな陰気なところにいたくないからな。家が一番さ)
 出不精を決め込みたいのは本人がダントツだったかもしれない。二番目に、部屋で宿題にぎりぎりまで取り組もうとしている末っ子と。
 賑やかな家族のお出かけだ。兄弟4人と母。そしてそれにいやいやついてくるもう一人。
 暑い夏の一日はこれからだった。






 さらに年が過ぎた。病室のベッドに、彼女はぼんやりしていた。
「あなたのところに、行けなかったわ」
 弱々しく笑う。
「あの時、私思ってた、これであなたに会えるって。…でも駄目だった。子供たちが、私のそばで泣いてたの。幼い頃の姿で。その声が、どうしても耳に響いて、残していけなかったのよ」
(いいんだよ、それで!)
 枕元で、涙にくれる姿。彼女の手を包んで、振り絞るように叫ぶ。開いた窓の、カーテンが弱く揺れていた。
(私のところになんて、来ちゃいけない! 君は! ここで生きるんだ!)
 血を吐くような叫び。でもそれは誰の耳にも届いていない。彼女は微笑んだまま目を閉じる。
「…征吉さん…セルゲイ」
(まり!)
 呼び合う声。聞こえていなくても聞こえているのか。
「もう少しだけ、待っててね。私、こんなにおばさんになっちゃったけど」
(君は綺麗なままだよ! そのまま綺麗なおばあちゃんになって、孫いっぱいに囲まれるまで生きるんだ!)
「とーちゃん…」
 指が動いて、手をしっかり握る。握って、握り返される感覚に、彼女はまた目を開いた。
「…誰?」
「ご気分はいかがですか、日向さん」
 知らない声、知らない顔だった。
「お子さんたちは、こちらで面倒見ます。安心してください」
「――ありがとう」
 ありがとう、知らない人。
 小次郎は走り回ってるらしい。金策に、事後処理に。ごめんね。心配かけて、苦労させて。
「セルゲイ」
「え?」
 知らない人が聞き返す。隣に、こちらも知らない女の人が立って、何やら耳打ちしている。
「日向は、明日お盆明けに戻るそうです。ゆっくり休んでください」
 何だろう。誰かがそばにいる。優しく寄り添ってくれている。また時間が経っていく。
「かーちゃん」
 ああ、朝になっていた。今度は、小次郎? それともその目は――。
「かーちゃん、よかった」
「うん、ありがと」
 ずっといてくれたのは、セルゲイ、あなたね。私だけが知っている、その目の色。
「金の心配はいらない。若島津が全部立て替えてくれた」
「そんな」
 日向は複雑な顔でうなづいた。
「セルゲイさんの、代わりに、って。あいつに、とーちゃんのこと話したっけ」
「どうだったかねえ」
 もう遠い記憶だ。父親の帰化の話はしたが、名前は言わなかったような。
「かーちゃん」
 もう一度日向は呼んだ。
「元気になれ、早く。俺たち、待ってる」
「うん」
 8月の青い空が窓から見える市立病院の大部屋。そのベッドの中で、日向まりさんは、何よりも大切な人たちのことを思い浮かべていた。



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