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「あ、弥生ちゃん――」
 廊下の角から姿を見せたのは美子だった。廊下の長椅子に座っていた弥生を見つけてすぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「ええ」
 それは何を問うものだったのか。弥生は弱々しく笑んだ。
「手術自体は成功だって、先生が。でも長引いてしまって、麻酔が切れるのは朝だろうって」
「成功、したのね?」
 弥生の様子を見て、あえて『成功』の部分を強く繰り返す。
 口にのぼらせれば、何人もが口にすれば、その言葉は強く腑に落ちる。自分一人で考えるよりずっと。美子は握る手を強めた。
「よかったわ、弥生ちゃん」
 おめでとうという言葉を受けて弥生は顔をうつむけた。そしてぽろっと涙がこぼれる。
「泣いていいわよ。うんと泣いて? 嬉し泣きなんだから」
「ううん」
 弥生は美子の胸にすがりついた。
「嬉しいからじゃないの。悲しくて。とっても悲しくて」
「どっちでもいいわ。今まで泣けなかった弥生ちゃんだもの。いっぱい泣いたって」
「…ありがとう」
 と声が出せたのはだいぶ経ってからだった。
「美子ちゃんが来てくれて、よかった」
「そうでしょう? 私もじっとしてられなくて」
 松山も明日には駆けつけるらしい。
「今はICUなの。ご両親が一緒だから、邪魔にならないように出てきたのよ」
 しんと静まる深夜の病院は、一人でじっと考え込むにはあまりに孤独だ。美子は自動販売機の温かいミルクティーを買ってきて、弥生と並んで口にした。
「ずっと昔だけど」
 あたりさわりのないことをぽつりぽつりと会話したあと、弥生はそんなことを言った。
「私ね、淳にぶたれたことがあるの」
「えっ?」
 当然美子は驚く。
「あの三杉くんが!?」
「そのあと淳のほうが落ち込んじゃって。ずいぶん引きずってたわ」
「そうなの――」
 事情はわからないが、二人にとってそれは大きな出来事となっただろう。
「私の考えなしの言葉でたくさんの人を傷つけたからなんだけど。あとで淳が謝ったのはね、ぶったこと自体じゃなくて自分の怒りでぶったってことだったの」
「まあ」
 美子は口に手を当てた。自分だったら、それはどうだろう。まあ松山が手を上げたことはないのだが。
「私のためでも傷ついた人たちのためでもなく、自分の怒りゆえだったのがいちばん許せないことだったって」
「……」
 何も言えなくなって、美子はゆっくり弥生の顔を覗き込んだ。どこかさばさばしたように弥生が微笑み返す。
「その時には言えなかったんだけど、私、嬉しかったのよね。淳がそんなふうに自分の感情で動いたんだってことが」
「――弥生ちゃん」
「淳は嘘つきなの。自分の本当に本当の気持ちをちっとも言わない。今度の手術だって」
 そう、通常の生活をする限りは何の支障もないという状態だったのに、選手でいるため、選手でいつづけるためという理由で三杉はこの大手術を決めた。誰の意見も受けずに。
 思いつめた言葉に、美子はもう一度手を握る。ぎゅっと力強く。
「じゃあもう寝ましょう? 徹夜したっていいことなんてないわ。明日、三杉くんが目が覚める時に、寝不足の顔なんかじゃなくうんといい笑顔を見せてあげて?」
 弥生は首を振った。
「淳は思い切り嘘つきの顔で起きると思うわ。なんでもなかったって笑顔で」
「だったら弥生ちゃん。あなたは知らん顔でその嘘つきの笑顔を受けてあげましょうよ。絶対にだまされませんからって」
「そうね、目が覚めたら。目が覚める、時にね」
「うん、うん」
 美子は笑った。
 朝は遠いようで近い。それを待つだけでいい。
「いい勝負よ、あなたたち。ほんとうに」
 もう一度、ぎゅっと。




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