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「こっち」
 ゲートを出たところで声がした。遠慮がちに手を振る美子がそこにいる。
「お疲れさま。フライトは順調だった?」
「……」
 松山はスーツケースを押す手を止めて無言で目を瞬かせた。迎えに来ると連絡は受けていた。それでもなお。
「…あ、ああ、うん」
「そっち持つわ」
 手押しカートに頼らずにスーツケースの上に乗せていた小さなバッグが頼りなく見えたのだろう。松山の返事は待たずに美子はそれを腕に取った。
 その顔を言葉もなく見つめると、自分の緊張感が予想より大きかったことに気づく。ごくりと息を飲みこんで、松山はやっと動き出した。
「ロンドンからじゃ遠いものねえ。じゅうぶん眠れた?」
「ああ、少しな」
 それは嘘だった。確かに照明が落ちた機内の席で目は閉じたものの、結局一睡もせずに来た。
 それもこれも、この控えめな笑顔の人を喜ばせたいという思いだけがぐるぐるし続けて時間が過ぎたからだ。フライトがどうだったかは記憶にない。機内食にもほとんど手をつけなかった。
「いいかい? 女性の気持ちが一番だからね」
 イギリスを発つ前に国際電話で強く言われたこと。
「一人一人好みは違うし、思い入れだってあるだろう? リングのデザインやブランドだって男だけで決めるのはどうかと思うよ」
 ちょっと貸して、とそばから言われて代わったらしい電話で話はさらに込み入ってしまった。
「確かにリングが定番だし親御さんとかにも受けはいいけど、ネックレスや時計とかがエンゲージの選択肢に入ってるの忘れないで。つまり美子ちゃんの希望を優先してほしいの。ほら自分からはなかなか言ってくれないタイプでしょう?」
 長い付き合いの弥生の言葉には説得力があった。同じ女性の意見としても。
 さあご決断を…となった松山に何ができただろう。
 完全に手詰まりとなったまま帰国の日を迎え、そして顔を合わせた瞬間にすべてが真っ白になった彼を責めることはできない。
「荷物もあると思ったからクルマで来たの。こっちにあるから」
 先に進む背中を眺めているうちに、松山は絶望的な状況に追い込まれていく気分だった。
「へ、へえー。免許取ったんだ」
 言葉と一緒に、数年前の光景が頭をよぎる。病院のベッドの上でただ横たわっていた彼女。意識を取り戻した時の安堵。そしてこの人とずっとずっと一緒にいつづけるんだという決心が。
 頭をブルンとひと振りして気持ちをしゃっきりさせる。
 そう。そう決心したではないか。それが何より大事だ。
「これって」
 走り出してから、やっと松山は正気を取り戻した。助手席で見つけたもの。それはルームミラーにかけられた彼の小さな写真だった。
「あ」
 美子は前を向いたままちょっと赤くなった。
「忘れてた。ショウコインメツしようと思ってたのに」
「え?」
「お守りのつもりで、クルマにずっとかけてたの。ほら、もう事故に巻き込まれるのはこりごりだから」
 松山に神頼みというわけではなく、睨みをきかせている前で下手なことはできないということらしい。免許を取ること自体、両親には反対されたのだが。
「ちょっと寄り道になるんだけど」
 実家に戻る道のりで美子はスピードを落とした。
「ここの桜が今キレイなの。松山くん、ギリギリ間に合ったわね」
 土手沿いに見事な桜並木があった。満開をやや過ぎ始めたらしく花吹雪が途切れない。
「契約おめでとう。まさかいきなり出番があってびっくりしたわ」
 クラブとの正式契約が済んでその週のうちに途中出場によるデビューを果たした松山は、すぐさま1アシスト、そしてシーズン最終戦だった次の試合で先発。相手司令塔を完全といえる封じ込めに成功した。試合は落としたがその選手のインタビューで、あんなヤツとは当分当たりたくないという最大の賛辞をもらった。
 契約までは研究生という立場でチームとの練習は欠かさずにいた成果とも言えたが、来期からのトップチームの座は監督からも約束されており、そういう意味でも次に繋がるシーズン終了だった。
「これで無職って言われずに済みそうだな」
 冗談混じりとは言え、これはけっこう重大な点だった。厳格な美子の両親は以前からそれを最低条件として示していたからだ。松山は堤のベンチに座ってわずかに笑顔を引きつらせた。
「やだ、松山くんらしくもない。あんなの本気にしないで」
 美子は言葉を切って、そして真剣な目になった。
「あの日のプロポーズ、私にとってはあの言葉以上のものはないの。松山くんが私を望んでくれた以上に、私が松山くんを大事に思ってるのよ、何倍も何倍も」
「――美子」
 見つめ合った二人はその一瞬の後にいたたまれずにうつむいた。
「ごめん。すごく抱きしめたいけどここじゃその…」
「うん」
 近くはないが一応地元である。婚約者同士とはいえ我慢はしないと。中学生の時のほうが積極的だったのでは?
「えと、それで聞いておきたいことがあんだけど」
 松山は覚悟を決めた。
「このオフに、本式の婚約やるだろ」
 二人の気持ちは決まっているものの、筋を通す形が要る。主に藤沢家に。
「え、リング?」
 切り出した松山にぽかんとした顔を向ける。
「ああ、それでなんだか様子がおかしかったのね」
「おまえの、その、好みとかさ希望とかあると思うから…」
 美子はふふっと小さく笑った。
「あの二人の入れ知恵ね」
 桜の枝が覆う空を見上げる。ほんのわずか、表情が動いた。
「私、リングは要らないわ。エンゲージリングは、ね」
「どういうことだ?」
「私のこと考えて言ってくれてるとは思うけど、私、弥生ちゃんにこそリングをはめてほしいのよ」
 松山も息を飲んだ。二人の間の空気が動く。
「私には式の時にマリッジリングをお願いします。エンゲージリングは弥生ちゃんに、確かに弥生ちゃんの指にはまるって信じたいの」
「…それって」
「幸せの形はひとつじゃないし、あの二人にはあの二人の想いがあるってわかるけど、それでも考えてしまうの」
 声が揺れた。松山は手をベンチの上で重ねる。
「本物のリングでも目に見えないリングでもいいから、それでもいつかきっと」
「そうだな。俺もそれを信じてる」
 人生の華やかで甘い時間はいつもそこにあるわけではない。自分の手で、自分の力でたぐり寄せないと。
「あいつらも、俺たちにお節介焼いてる場合じゃないよな」
「…ほんとに」
 彼らは歩き始めた。今度は手をつないだまま。頭上から絶え間なく降り注ぐ桜。
「ねえ、婚約式には欲しいもの、あるんだけど」
「えっ、そうなのか?」
 自分からねだるなど、ありえないと思っていただけに驚いて顔を覗き込む。美子は頬を染めてうつむいた。
「あのプロポーズの時やっぱりこんな桜の木の下で、雨上がりだったから、私あれからも思い出すたび桜の香りも一緒に思い浮かんで」
「は…い?」
 あれが桜の木だったなど松山の頭には残っていない。いっぱいいっぱいだった決心のせいで。花の時期でもなかったし。いつしか足が止まっていた。
「それとエンゲージリングと……関係あるのか?」
「うん、桜の香りはずっと忘れない…」
 後日、三杉と弥生が聞かされたのは、おそらく前代未聞の「エンゲージ桜餅」が結納の場に登場したことだった。
 晴れやかな未来に晴れやかな笑顔を。
 遠い願いは誰にも語られず、胸に納めたまま。


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